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洗礼について




洗礼を受けたいと思われるお方は、下記の文章をよくお読み下さい。また、過去に洗礼を受けた方も、文章を読んで洗礼の意味を正しく理解して下さい。
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なぜ洗礼を受けなければいけないのでしょうか


 人間には肉体を持っている面と、魂として生きている面とがあります。肉体を持っている面は肉です。魂として生きている面は霊です。

 肉の本質は水です。原子の原形は第一原子である水素原子ですが、水はすべての物質の物理的な原点になるのです。すべての物は、水から出て水によって成り立っていると、ペテロの第二の手紙三章五節に書いています。

 『古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水が元になり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により、水でおおわれて滅んでしまった』とあります(同3・5、6)。

 これがノアの洪水の根本原理になっているのです。神によって造られた人間が罪を犯して、どうにもならない状態になってしまったので、人間とすべての生き物を、洪水によって滅ぼしてしまった。これがノアの洪水の事件です。

 洗礼は神がノアの洪水を人間に執行したことについての、非常に深い神の御心であって、洗礼は受けても受けなくてもいいという、そんなでたらめなものではありません。内村鑑三氏は、洗礼は受けても受けなくてもいいと言っていますが、彼は人間存在の実質についての原理を、全然知らなかったのです。聖書の原理を全然知りません。彼は地球存在の原理を、聖書的に知りません。従って、魂が救われるという可能性を知らないのです。

 人間の肉体が携挙される、肉体が死なない状態に変化してしまうことを、内村氏は明確に説明していません。これが間違っているのです。

 イエス・キリストの復活に対する彼の信仰が、非常に不徹底です。不完全です。これが内村氏が水のバプテスマをいい加減に扱っていた証拠でありまして、彼の信仰はキリスト教の宗教概念を出ていないのです。

 水というものの重大性、イエスが水から上った時、どういう状態であったのか。洗礼を受けて水から上った時、どういう状態であったのか。イエスが洗礼を受けたのを、どのように見ているのか。こういう重大な点を、内村鑑三氏は見落としているのです。

 神は何のために目に見える地球を造ったのか。肉体人間をなぜ造ったのか。水から生まれて水によって成り立っている人間存在を、どうして神が生かしているのか。神が造った万物を、神が否定しようとしているのです。ここに新天新地への神の重大な決意があるのです。

 神の国の完成というのは、現在の地球をアウフヘーベンすることであって、これが今のキリスト教では分かっていないのです。『見よ、私はすべてのものを新にする』(ヨハネの黙示録21・5)と言っていますが、やがて万物も地球も新しくなるのです。

 水から生まれるとは、物理的に存在する自分自身と絶縁するという、非常に広範な意味を持っているのです。水から生まれることは、肉体的に存在する人間が、ぜひしなければならないことです。

 霊から生まれるとは何か。人間の知識は、神の命、神の御座を全然知りません。神の命や神の大きな白い御座(同2011)は、生きている人間の命の実体です。人間のリビングの実体です。人間のリビングの実体を知るためには、どうしても霊を必要とします。

 人間の常識ではだめです。常識も知識もすべて肉であって、これを霊によって全く新しく直すこと、考え直すことが必要です。

 人間の記憶も判断も、全部肉体に基づいた精神構造です。肉体に基づかない精神構造は、次元が違います。だから、霊に従って新に生まれる必要があるのです。

 肉体的に水から生まれること、魂的には霊から新に生まれること、水からと霊からの両方にわたって、新に生まれて神の国に入ることをしなければいけないのですが、世界中の教会でこれを実行している所はどこにもありません。私はこれをやかましく言っているのです。

 釈尊のことを申し上げますと、人間の再出発が有りうることを予告しているのです。人間が完全に再出発しなければならないことを、一切空と言っているのです。これが釈尊の悟りです。般若ハラミタはそれを言っているのです。

 一切空、現在肉体的に生きている人間は、肉体的にも精神的にも、一切だめだと言っている。これが般若心経の思想です。釈尊は新に生まれることを、自分で経験したのではありません。消極的に、現在までの間違いを指摘しているのです。ですから、釈尊の空と、聖書の命を学ぶ必要があるのです。


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ノアの洪水はなぜ起きたのでしょうか


 カルマというのは聖書で言いますと、罪と同じ意味です。原罪と同じ意味です。本当はカルマンと言いますが、これを簡略してカルマと言っています。

 ノアの洪水の時に罰せられなかったのは、魚だけです。地上の生物は、皆罰せられたのです。虫類から獣類、人類に到るまで、地上に生きているものは全部殺されたのがノアの洪水です。その時、神の刑罰を逃れたのは、水中の生き物だけです。これがとこしえの命の雛形になるのです。水中の命は、同じ地球上に住んでいながら、別種の命を持っている生物を指すのです。

 日本人はノアの洪水の意味がさっぱり分かりません。これはキリスト教が悪いのです。キリスト教自身が洪水のことを知らないのです。内村鑑三氏はノアの洪水のことを全然知りません。知らないから、洗礼は受けても受けなくてもどうでもいいと、けしからんことを言っているのです。日本人は内村氏を十円切手にするくらい、聖書に対して無知です。日本の文化人は聖書のことを、全然知らないのです。

 水のことを知らない。洗礼のことをはっきり認識していないということは、イエス・キリストをバカにしているのです。ノアの洪水そのものをバカにしているのであって、神を足蹴にしているのと同じことになるのです。

 そういう愚かなことを、内村鑑三氏はしているのです。これを現在の無教会の人々は全く知らないのです。無教会の人々は大学の先生たちを中心にしていますが、理論的に理屈を言っているだけです。本当の意味で素朴な感覚で神を信じることができない人々が、理屈で勝手に満足しているのです。

 内村鑑三氏が説いたのは神学であって、信仰ではありません。彼は水のこと、ノアの洪水のことが、全然分かっていなかったのです。イエス・キリストが父の内にいたという信仰が、全然分かっていなかった。これがキリスト教信仰の悪い所です。

 水という言葉だけでは分かりにくいのですが、水と御霊(エネルギー)が一つの働きをしているということを、マスターして頂きたいのです。

 これが創世記の一章二節にあります。神の霊が水のおもてをおおっていたとあります。おおうというのを英訳では、ムーブド・オン(moved on)とありますから、これは覆いつくすように動かしたとなるのです。水があることが、御霊の働きがあることを意味するのだとなるのです。物質的に物が存在することは、水が原点になっているのです。

 闇が淵のおもてにありという言葉に対して、神の霊が水のおもてを動かしたという言葉があるのです。淵と水は同じものです。水は動いているのです。流れているのです。淵は流れていない、とどまっているのです。

 神の霊が水のおもてを動かしているというのは、水のあり方を絶えず動かしているのです。これが水素原子を暗に指していると考えられるのです。

 水素原子がなければ、今日の物理現象は存在しません。神の霊が水のおもてを動かしていることが、物質世界になっているという聖書の言い方は、現在の科学理論から考えても、間違っていないのです。

 人間が自ら生まれるということは、皆様方自身の肉体が、もう一度やり直されることを意味しているのです。

 皆様の現在の肉体は、今の状態のままでは死ぬためにあるのです。ところがノアの洪水のことをよくお考えになって、ノアの洪水の水を自分の肉体にかぶる。つまり、ノアの洪水を執行しますと、皆様方は生まれる前に帰ってしまうのです。肉体が消滅してしまうのです。

 これをイエスは、自 ら生まれると言っているのです(ヨハネによる福音書3・5)。

 皆様の肉体が消滅すると言いましたが、肉体が消えてなくなるのではありません。例えばマタイによる福音書の三章十六節に、イエスが洗礼を受けて、水から上がった時に、神から見るとイエスの肉体が見えなかったのです。これがイエスが正当に、正式にノアの洪水を神の御心に応じて受け取ったことの表明になるのです。

 父なる神の御心に従って洗礼を受けますと、その人の肉体が消えてしまうのです。神の目からご覧になると、その人自身がいないことが分かるのです。

 本人の信仰が、そのまま神の御心に接着されるのです。本人の信仰が神に感じられるのです。イエス自身の信仰が神に感じられた。その時、父なる神の目からご覧になって、イエスの肉体が見えなかったのです。

 ノアの洪水の真意が真正面から受け止められるということは、滅多にないことです。アブラハムに約束が与えられた後に、二千年の間、一人もなかったのです。イエスが初めてこれに成功したのです。そこで神が大いに喜んだ。神の喜びが、聖霊が鳩のように現われたという表現になっているのです。

 水のバプテスマ、ノアの洪水を真正面から受け取るということは、神から見てその人の肉体が消えてしまったことなのです。これが洗礼の本当の意味ですが、キリスト教ではその内容が全然分かっていません。洗礼について正しい説明ができる先生は、一人もいないからです。

 イエスは水から生まれなければならないと、はっきり言っているのです。水から生まれるというイエスの命令の意味が、世界中の神学者、キリスト教大学の教授に、全く分かっていないのです。

 白人社会が、聖書をバカにしています。聖書を踏みつけ、キリストを踏みつけている。これが世界が行き詰まっている原因です。やがて世界は大混乱になるでしょう。これは白人社会の罪です。

 日本は白人社会と異質の文化を持っています。だから白人が罰せられる時に、日本も側杖をくいますが、比較的軽い状態で助かるでしょう。

 これから世界の情勢は、どんどん悪くなっていきます。そしてついに、破局を迎えるでしょう。白人文明は、全然根っこがないからです。聖書を信じていないからです。白人文明が神をバカにしている。キリストをふみにじっている。そういうバカなことをしているのでありまして、キリスト教がその先導をしているのです。

 水がよく分からないということが、神の御霊を踏みつけていることなのです。皆様は水をよほど注意して考えて頂きたいのです。

 水から新しく生まれること、水のバプテスマは、非常に重大な問題です。三位一体の神の名によって、水をかぶらなければ、本当に新しく生まれることはできません。これを説明できる牧師がいないから困ったものです。

 水は物理世界の原点です。ノアの洪水は神が物理的に存在する世界を、今から五千年程前に否定してしまったことを意味するのです。

 現在の世界は神に否定されている世界です。ユダヤ人がこれをまともに考えていないのですから、現段階の文明は、無くもがなという状態で現われているのです。

 現在の文明状態を、神は根本から認めていません。国際連合は人間が勝手に集まって、神を踏みつけているだけのことです。国際連合が人権を主張している。それに従って日本も人権を主張していますけれど、これは全く笑い話みたいなことになるのです。基本的人権が人間にあるとすれば、神権を求めていないことになる。神を足蹴にしなければ、人権は成立しないからです。

 地球の原点は水です。これは霊の原理を指しているのです。水の中に住んでいる動物は、霊の中に住んでいる動物と同じことを意味しているのです。

 


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集会員の心得

 

               洗礼を受けた方は、下記の集会員の心得をよく読んで、実行してください。

 

命は死なないものです。現実の命のあり方がそのまま永遠にあるのではありません。あり方は変わりますけれど、本質的に死なないのが命です。

 死なない命が死なない命として働く場合には、友を呼ぶという形で働かなければならないのです。性質がそうなっているのです。一輪咲く花には二輪、三輪と相伴って咲くのが自然のあり方です。本当の福音を学ぶことは、自分一人が命が分かるというだけでなくて、自分に相伴っている人々が命に目を覚ますことです。こういうことが起きるのは当たり前です。

 伝道は義務的なものと考えなくてもいいのですが、命を本当に受け止めていたら、自然に人々に伝えたくなるに決まっているのです。まず皆様が命を本当に受け止めているかどうかが問題です。本当に命を認めれば、その命は皆様の近隣の友人に影響するのが当たり前です。伝道に熱心であるかどうかということではありません。皆様の信仰の本質が問題です。自然に人々に伝えたくなるに決まっているのです。

 花は一輪だけ開くということはないはずです。二輪、三輪と相伴って開くのです。皆様が本当に花を開かせたいのなら、そのようにして頂きたいのです。命の花が開くのなら、そういう形になるのに決まっているのです。

 今の時代が悪いということは言えますが、伝道できないというのは言い訳です。皆様の回りには皆様の信仰に全く応じないということはないはずです。一人や二人の賛同者は必ずいるでしょう。やりやすい立場の人と、やりにくい立場の人との違いはありますけれど、福音を伝えて全く聞かなかったとしても、恵みは皆様に帰ってきますから、それでいいのです。福音を精一杯人に伝えたという実績を神は評価して下さるのです。

 伝道については、素朴な感覚を持ったらいいのです。本当に命に感謝して本当の命を持っているとしたら、仕事と信仰は一つになって、伝道の方へ重点が置かれるでしょう。

 その人の熱意が他人を感動させずにはおきません。そうすると、賛同者が現われることになるでしょう。それができないと言うのは、信仰に素朴さがないからです。

 私たちのグループの基本精神は、集会、献金、伝道です。これを強力に推進していかなければならないのです。

 イエスは次のように言っています。

 「よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天で皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは天でも皆解かれるであろう。

 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちの二人が、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいます私たちの父はそれを叶えて下さるであろう。

 二人または三人が、私の名によって集っている所には、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書181820)。

 神が導いているのは、何処までもグループとして、群として導いて下さるのであって、個人として導いているのではないのです。個人の信仰は、知らず知らずに独断に陥りやすいのですが、二人または三人がイエスの名によって集っていると、イエスもその中にいるのです。それは魂と魂との触れ合いが絶対必要であり、また、イエス・キリストという人格に統合することによって、本当の福音の実体が明らかにされるからです。

 日本の憲法に、「天皇は国民統合の象徴である」という不思議な言葉があるのです。他の私の著書の中で何回も述べてきましたが、天皇はキリストの影になっているのです。

 日本人の人格が天皇に統合されるように、人類全体がキリストに統合されなければならないのです。なぜかと言いますと、前世において人祖アダムが神を裏切った結果、一人の人格が何百億にも分裂してしまった。そこで、地球に放り込まれたからです。

 今、地球にいる人間は、基本的人権があり、一人前の人格があると威張っていますが、実は本来あるべき人格の何百億分の一に分解されたかけらのような人格になっているのです。だから、善も悪も分からない、命も死も分からない、神も悪魔も分からない、全く愚かな人間になっているのです。

 そこで、人類はイエス・キリストに統合しなければならないのです。神は統合した群に恵みを与えるのです。

 統合する人数は何人でも構わない。多くても少なくてもいいのです。そこで、イエスの名によって二、三人集る所には、私もその中にいるとイエスが言っているのです。

 集会は毎週必ず開催して頂きたい。土曜日でも日曜日でも構いません。時間と場所は集る人の都合の良い所でいいと思います。

 遠方の方で個人でいる人は、インターネットのスカイプ通話を利用して頂きたい。スカイプは地球上の何処へでも、何時間話しても無料ですし、最大で二十四人までが参加して会議電話ができますので、集まることが不可能な人どうしは、スカイプにて勉強して頂きたいと思います。

 それから献金についてですが、聖書には次のようにあります。

 「アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。その時、サレムの王メルキセデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、

 『願わくは天地の王なるいと高き神が、

   アブラムを祝福されるように、

   願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された

   いと高き神が崇められるように』。

 アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った」(創世記14・17〜20)。

 「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかし、あなたがたは私の物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれはあなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、捧げ物をもってである。

 あなたがたは、呪いをもって呪われる。あなたがたすべての国民は、私の物を盗んでいるからである。私の宮に食物のあるように、十分の一全部を私の倉に携えて来なさい。これをもって私を試み、私が天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」(マラキ書3 ・ 8〜10)。

 収入の十分の一は神のものだから、神の所へ持ってきなさいというのが聖書の原理です。

 私たちは自分の意志で生まれたのではない。頭も目も口も耳も、手足も内臓も、自分で造ったのではない。今生きているのは自分ではないのです。

 また、空気も水も、太陽光線も、森羅万象も、自分で造ったのではない。すべてが神のものなのです。だから、収入もすべて本来神のものですが、その中から十分の九を生活費として使わして頂くというのが、当然のあり方です。

 収入の十分の一を神に捧げるということをしていると、不思議と、経済的、思想的な行き詰まりもないし、健康的にも家庭的にも恵まれるのです。

 私は会社勤めを始めて以降ずっと什一献金をしているので、経済的にも、信仰的にも、健康的にもすばらしい恵みを与えられています。これからも与えられると確信しているのです。

 「十分の一を私の所に携えてきなさい。そうしたら、あふれる恵みをあなたに注ぐ」と神が言っているとおりに実現していますので、本当に感謝している毎日です。

 集会、献金、伝道は私たちの基本精神です。どこまでもこれを守っていきたいと願っているのです。

 

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水と霊によって新しく生まれる

 

                 洗礼を受けた方は、霊によって生まれるという事をめざしてください。

 

 皆様が毎日生活している心構えですが、どういう思いで生きていたらいいのか。「肉の思いは死であり、霊の思いは命である」とパウロが言っていますが、現在の人間は死なねばならない命しか知らないのです。

 はっきり言いますと、皆様が今生きている命は死なねばならない命です。死なねばならない命で生きている状態で、聖書の勉強をしていることが間違っているのです。

 皆様はこの世に生まれた命をそのまま持っているでしょう。これが間違っているのです。この世に生まれた命をそのまま持っていたら、必ず死にます。この世に生まれた命を脱ぎ捨てて、別の命を持ち直さなければならないのです。これを本当に実行するかどうかが問題です。

 キリスト教はこの世に生まれてきた人間が救われると言っています。これは根本から間違っているのです。

 この世に生まれてきた人間は死ぬに決まっているのです。これは救われない人間です。この世に生まれてきた人間は神に背いている人間です。固有名詞の人間、親から生まれた人間は、必ず死にます。

 だから、水と霊とにより新に生まれなければならないのです。

 イエスは言っています。「よくよくあなたに言っておく、誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネによる福音書3 ・ 5)。

 イエスはこれが言いたいのです。水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができないのです。人間から生まれたものは必ず死ぬのです。「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができない」とイエスが言っていますが、皆様はこれを実行したでしょうか。経験しているでしょうか。

 皆様は水から生まれたのでしょうか。霊から生まれたのでしょうか。水から生まれるとは洗礼を受けることです。水と霊とから新に生まれて神の国に入ることが、新約聖書の目的です。

 これが実行できない人は、まだ新約聖書を本当に学んではいないのです。宗教的に勉強してはいるでしょうけれど、本当に聖書の中に入り込んでいないのです。

 水はあるということの宇宙現象です。ありてあると言ってもいいし、あるだけでもいいのです。あるということの宇宙現象が水です。宇宙現象がなくなれば水はいらないのです。

 闇が淵の表にいなければ、宇宙現象はいらないのです。闇が淵の表にいる間は、宇宙現象が必要なのです。闇が淵の表にいなければ、神の霊が水の表を覆うことがないのです。

 水は宇宙現象の原点的なものであって、現在の宇宙現象はなければならないものです。なぜあるのかというと、宇宙があることが水によって証明されているのです。

 宇宙がなぜあるのかという質問と水がなぜあるのかという質問は同じことです。水があることが宇宙があることです。宇宙がなくなったら水がなくなるのです。

 水があるということが、神の御名を証明しているのです。水があることが神の証明になっているのです。水があるから地が生まれたのです。水がなければ地はないのです。

 土は現象です。現象という物質が土です。地があることと土があることとは違うのです。地は水みたいなものです。地は言葉とよく似ているのです。土を耕すというのは、現象を耕すということです。人間が造られている土はそういうものを意味するのです。

 水と霊とから新に生まれるというのは、人間であればできるのです。人間は神の命を吹き込まれているので(創世記2 ・ 7)、神の命を理解することができるのです。また、神の命を自分のものとすることができるのです。

 水を理解することができるし、土を理解することができるのです。土を耕すためにはどうしても水の根源を知らなければならないのです。

 イエスは、「水と霊とから生まれなければならない」と言っています。水から生まれるとは洗礼を受けるということです。何のために洗礼を受けるのかと言いますと、ノアの洪水をもう一度確認するためです。

 ノアの洪水を自ら体験するために洗礼を受けるのです。三位一体の神の名によって洗礼を受けると、ノアの洪水を受けたことが私たちの人生の実体になって働くのです。水が働くのです。これを水から生まれると言うのです。

 水から生まれるということは、ありてあることの原点に返ってしまうのです。生まれる前の状態になってしまうのです。生まれる前の状態になると、皆様の生活の原理がどうなるのか。固有名詞に全然関係がない人間になるのです。親とか兄弟、親戚縁者に関係がない人間になってしまうのです。

 従って、水から生まれた人間は死なない人間になるのです。この世に生まれた人間は死にます。必ず死にますが、この世に生まれていなければ死なないのです。死ぬはずがないのです。

 ヨハネは次のように言っています。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、いのちのことばについて―このいのちが現われたので、この永遠のいのちを私たちは見て、その証をし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである」(ヨハネの第一の手紙1 ・ 1、2)。

 ヨハネが言っているように、皆様が今生きていることの実体、五官、心理状態、生理機能は永遠の命です。固有名詞が生きている、固有名詞が自分の実体であると思っているから分からないのです。

 人間の肉体はないのです。生きているという事はありますが、肉体はないのです。

 人間として生きていれば、死ぬに決まっているのです。ところが神から見ると、人間の命ではない命を生きているのです。人間として生きていない人に向かってイエスは、「神の国を求めよ」と言っているのです。

 なぜなら生きていることが神の国です。皆様の肉体はないのです。水から生まれた人間はそうなっているのです。

 洗礼を受けた人は、生まれる前の状態に帰ってしまっているのです。生まれる前に帰っているのに、固有名詞の人間がいると思うことはおかしいのです。死ぬことがおかしいのです。水から生まれた事実をはっきり確認したらいいのです。

 生きているという事は、命の言なのです。ヨハネが言っているように、初めからあった命の言が現われたのです。

 初めからあった命の言が、今私たちに現われた。これを肉体と言っているのですが、私たちの肉体ではない。初めからあった命の言なのです。だから、神の子です。

 肉体があるのではない。初めからあった命の言が肉体となっているだけです。洗礼を受けるとそうなるのです。これを水から生まれると言っているのです。

 固有名詞の人間として生きていたら、必ず死にます。肉体的に存在する固有名詞の人間はいないのです。水から生まれるとそうなるのです。洗礼を受けると神の信仰が働くからです。神の信仰とノアの洪水の水とが働くのです。だから、水から生まれるのです。

 水から生まれると、この世に生まれる前の状態に帰ってしまうのです。これを新に生まれると言っているのです。

 霊から生まれるというのは、神の御霊によって生まれるのです。

 聖書に次のようにあります。

 「あなたがたが新に生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言(みことば)によったのである」(ペテロの第一の手紙1 ・ 23)。

 肉体的な親から生まれたのは、死ぬべき命として生まれたのです。仮に生まれたのです。だから、死ななければならない命に、もう一度生まれなければならないのです。

 私はこれがどうしても分からなかった。しかし、どうしても新しく生まれることを経験したかったのです。そこで神に求めたのです。とことん神に求めようと思ったのです。「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているのである」(ヨハネの第一の手紙4 ・ 2)。この言葉が心に残りました。

 この一句が妙に心に残ったので、この一句をとことん黙想しようと考えたのです。何年でも、神から答を教えられるまで、執念深く問い続けようと決心したのです。当時はサラリーマンをしていましたから、会社へ行って仕事をしていましたが、ほとんど上の空で仕事をしていました。

 朝から晩まで、この一句を考え続けたのです。二年間、この一句だけを考えていましたが、二年後の朝の通勤途中の電車の中で、突然に目の前の景色が全く変わってしまいました。巨大な柱にぶつかったのです。神ご自身にぶつかったのです。思わず「おやじだぁー」と叫んでしまいました。そして、今まで生きてきた自分という思い、自我意識、自分の経験、自分の思想が木端微塵に吹っ飛んでしまいました。そして、生かされている当体がイエスであることが分かりました。

 その時は全くの赤子でしたが、その後、御霊を崇めて御霊に導かれて、だんだん成長してきたのです。

 聖書の言葉はどこでもいいのですが、気にかかる一句がありましたら、これを捉えて、その真意が分かるまでとことん黙想してみるのです。そうすると、ある時、この世の親、この世の思想から生まれた自分が完全に爆破されてしまう事が起きます。そして、聖書の一句が自分の命になるのです。この一句から生まれるのです。

 これが聖霊を受けることでありまして、この体験を必ずして頂きたい。この体験が新しく生まれることですから、これを基礎にして本当の聖書の勉強をすることができるのです。

 霊から生まれるとどうなるのか。実在しないはずの自分が実在することになるのです。これを霊から生まれるというのです。聖霊の降臨によって実在しないはずの初めからあった命の言が存在しているのです。これがヨハネの第一章の一節、二節に書いてあるのです。

 肉体的に存在する固有名詞の人間は全く実存していないのです。生きているという事がらが、肉体という幻になって見えるだけです。固有名詞の名前で生きていて、肉体的に生きている。それを自分自身で確認していたら、必ず地獄へ行くのです。聖書を信じていないからです。

 生きているという事がらが形を取っているだけです。事がらが形を取っているのです。事がらは霊です。事がらが形を取っているだけであって、人間がいるのとは違うのです。

 生ける神を父と呼んでいた自身が、事がらとして生きていたのであって、イエスという人間がいたのではないのです。これをイエス自身がよく知っていたのです。固有名詞は皆様自身とは何の関係もないのです。生きているという事がらが皆様という格好になっているだけです。

 形は実体ではありません。水から生まれること、霊から生まれることの二つを経験したらいいのです。従って、生きているという形があるのは当たり前です。水と霊とから生まれても、形があるのは当たり前です。もし形がなかったら、とこしえの命が経験できないのです。

 水から生まれることによって、個人的な命は実存していないことを実感するのです。霊から生まれることによって、とこしえの命が形として存在していることを知ることができるのです。これが皆様自身です。生きているという状態を冷静に冷静に判断したら、そうなっていることが分かるのです。

 聖書の勉強をするということは、水のバプテスマの意味を知り、聖霊のバプテスマを受け、十字架、復活の勉強をすることです。これを勉強したら、私が言うことが分かるはずです。これが正しく分からないのは、聖書の勉強を正しくしていないからです。

 水と霊とによって新に生まれて神の国に入るのです。毎日、毎日、これを実行するのです。皆様の生活が神の国に入っている生活でなかったらいけないのです。これが嫌なら地獄へ行くしかないのです。

 今の世界には、水と霊とから新に生まれて神の国に入るということを、実行している人がいません。皆様にはどうしても実行して頂きたいのです。

 

 

 

イスラエルの回復のための祈りについて

 

私たちはイスラエルの回復のために集められて、聖書を勉強しているのです。下記の文章を読んで、イスラエル回復のために、祈ってください。

 

人間が現象世界に生きているというのは、ごくわずかな間です。やがてこの世から去っていかなければならないに決まっているのです。いくら力んでも二百年も三百年も生きることはできないのです。一千年も一万年も生きることはできません。現世を去った後の世界は永遠です。永遠に無限に裁かれることになったら悲劇です。

 神は現象世界を認めていません。ところがイエス・キリストが神の右に座せしめられて、祈っているのです。イスラエルを回復したまえ、イスラエルを返したまえと祈っているのです。

 神はイスラエルが回復しないままで、現世を消してしまう訳にはいかないのです。神はイスラエルに約束を与えた。神の約束が成就しなければならない。神の約束が成就するというのは、この世がある状態のままで神の国が現われなければならないのです。そうでなければ神の約束が無意味になるのです。このためにキリストは神の右に座しめられているのです。

 そこで神は現象世界を否認しているけれど、キリストが祈っているから消滅させる訳にはいかないのです。

 キリストの祈りによって、やがて千年王国という驚くべき永遠の平和が実現するでしょう。千年間の絶対平和です。地球の物理状態が変ってしまうのです。地球環境の状態が完全に変ってしまいます。海の状態、天候、気候の状態が全く変ってしまいます。

 その結果、地球に黄金世界が現われるのです。人間が願って願ってやまなかった理想の平和が、地球に実現するのです。その時、私たちがイスラエルを指導しなければならないのです。

 神がユダヤ人に与えた約束は完全に成就するのです。今、私たちがイスラエルのために祈ることは、第三の天におけるキリストの祈りに協力していることになるのです。

 私たちは宇宙を改造するための祈りに協力しているのです。これ以上の哲学、宗教は必要がありません。これを絶学の境というのです。これは絶対最高の原理です。

 人間はこれ以上のことを知る必要がありません。だからこれを信じなければならないのです。私たちの祈りは、第三の天におけるキリストの祈りに協力しているのです。神のイスラエルを救いたまえという祈りは、神ご自身、全能者の祈りです。私たちはこの祈りに合わせて祈らされているのです。

 アブラハムは「我は全能の神なり」という言われて張り倒されたのです。へたばったのです。私たちはまだ張り倒されていません。

 御霊を受けたくらいでは、張り倒されたとは言えません。私の考えは本当に間違っていたと心から言える時に、張り倒されたのです。再び立ち上がることがないように、神に徹底的に叩き潰されてしまうのです。そうすると私たちはちりに帰ることができるのです。

 神は、「人の子よ、帰れ」と言っています(詩篇90・3)。この聖書の言葉どおりにならなければいけないのです。

 イスラエルの回復を願う祈りは、万物を完成し、地球を完成する祈りです。神を完成する祈りです。これはキリストの第三天における祈りです。この祈りを、できるだけ毎日、朝食、昼食、夕食、就寝、の前に真剣にして頂きたい。

 その祈り方が分からない方は参考例の骨子を述べておきますので、このような内容で祈って頂いたらよろしいと思います。

 

参考例1

 主よ感謝致します。

 現在あなたの御民イスラエルが、あなたに背いて悪魔の子になり、悪魔の思いを世界に広げています。これが、世界中の人間が死んでいく原因になっています。

 しかし、イエス・キリストの十字架によって、悪魔が完全に否定され、地球から死がなくなりました。どうかイスラエルがこの事実を受け入れて、一日も早く地上に本当の平和がきますように、お祝り致します。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致します。

 

参考例2

 主の御名を讃美致します。

 現在イスラエルは悪魔にそそのかされて、悪魔の子になっていまして、イエスをキリストとして受け入れようとしていません。

 イエスこそイスラエルに与えられたメシアでありながら、メシアとして受け入れようとしません。

 彼らの頑な心を変えて、イエスをキリストとして受け入れる日が、一日も早く参りますようにお祝り致します。

 この祈りを主の御名によって御前にお捧げ致します。

 

参考例3

 主の御名を讃美致します。

 現在イスラエルは固有名詞の自分を絶対とし、目に見える現象世界が絶対に存在していると固く思いこんでいます。

 これは悪魔が考えた思想でありまして、悪魔に騙されたユダヤ人がこの思いを固く信じています。彼らはこの思想を全世界に広めてきました。

 固有名詞の自分は存在しないし、目に見える現象世界も存在していません。人が生かされている実体はイエスでありますし、神の国が地球に展開しているのです。

 イスラエルの人々が、一日も早くこれに気がつきますように、どうぞ彼らの頑な心をやわらかくして下さい。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。

 

参考例4

 主よ感謝致します。

 イスラエルは選民、約束の民であると言って、世界の民族をリードしていますが、彼らは神が与えた約束を誤解しているのです。

 神がアブラハムを通して与えた約束とは、ユダヤ人に永遠の命の宝物を与えるという意味です。ところが彼らは、現世で幸福になること、現世で王国を造るための選民だと考えているのです。

 現世は悪魔を騙すために神がつくった幻の世であって、これは暫くの間、現われてやがて消えていくものです。

 永遠不滅の新天新地こそ、彼らが目指すべき国です。

 この事に一日も早く彼らが気がつきますようにお祈り申し上げます。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。

 

参考例5

 主よ感謝致します。

 アブラハムに与えられた約束の実体は、永遠の生命でしたが、イスラエルはこれを正しく受け取りませんでした。

 神はイスラエルの間違いを正すために、多くの預言者を送りましたが、聞き入れませんでした。最後にイエスを送って、永遠の生命の実物、その受け取り方を実際に見せたのですが、彼らはそれを受け入れずに、逆にイエスを殺してしまいました。

 これは誠に困ったことでありまして。ユダヤ人が約束を正しく受け取らなければ、万物の創造の目的、地球創造の目的も、人間創造の目的も、すべて無効になってしまうのです。

 神が地球を造られた目的、人間を造られた目的を成就するために、彼らが新約聖書を受け入れ、イエスを受け入れますように、また、アブラハムの心境を受け入れて、神が与えた約束が成就しますように心からお願いします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。

 

 祈る内容は全く自由ですが、どのように祈ったらいいのか分からない人は、以上の例を参考にして下さい。

 イスラエル回復の祈りは、神に最も喜ばれる祈りです。これを続けたら、健康的にも、経済的にも、家庭的にも、すばらしい恵みを与えられるでしょう。私自身も、この祈りを続けているために、すばらしい恵みを神から与えられました。現在も与えられていますし、これからも与えられるものと確信しているのです。

 

他に多くの著書を出していますので、よろしかったら私のホームページをご高覧ください。http://www15.ocn.ne.jp/~kajiwara/

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